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一般財団法人北海道河川財団会長 北海道大学名誉教授(15代総長・放送大学名誉教授(5代学長))
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 9月14日{水}から9月19日まで、中国の西安の国際会議場で開かれた、国際水協会(International Water Association;IWA)の会議、「Water for the Future Cities 」に参加して、基調講演をしてきました。IWAの重要な課題別会議で、5回を数えますが中国西安でその2回目が開かれました。400人以上の参加者があり盛会でした。IWAは世界72カ国が加盟している大きな水会議で、5,000名の個人・法人会員を含み、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、等の地域組織があります。中国が自身の大きな人口と香港、台湾、シンガポール等を含むChina(シナ)圏に中国語/英語ベースでの活動を広げようとしています。
 この国際会議を2回にわたって主催したのが、西安建築科技大学副学長の王暁昌教授(Prof.Wong )で、国際水協会の都市水問題グループの重要メンバーです。中国は水資源が乏しく、人口が急増中で500万都市が続々誕生し都市水問題を近代を超えて処理しないと先行きが難しくなりますので、この問題を重視する活動に熱心です。特に西部/内陸部はこの問題の対処なしに生き残れず、日本やヨーロッパが整備した近代上下水道の延長線上に未来がないことを、感度の良い研究者/技術者は考えを巡らし始めています。(感度のない計画も多々ありますが)
 王教授は昔北海道大学の大学院生(私が指導教官であった)で、黄河の超髙濁水処理のためのペレット凝集分離で博士になり、私の水代謝論/水環境区論を学んで現在の展開につなげている、ある意味では、この分野の私の跡継ぎの一人です。1983年文化大革命が終わってすぐ、私の凝集理論を日本の水道協会誌で学び中国語に訳して出版した宇教授の依頼で、3ヶ月近くにわたって文革で下放して技術/研究の途絶えた中国全土(黒竜江省から海南島まで)の大学講師(当時助教授層は壊滅していました)/設計院の高級工程師を西安に集め集中講義と北京/上海 蘭州に至る現地学習をしましたのが思い出されます。
 当日は、G.ダイガーIWA会長、P.ライター専務理事、第1級騎士勲章を国王から頂いたばかりのノルウェー工科大学名誉教授のH.オーデガード(私が北大総長時代半年北大の客員教授)、香港科学技術大のチェン教授(台湾籍で京都大学博士)始めオーストラリア、オランダ、アメリカ、等沢山の旧知が参加した。日本からも北大の船水教授、水道団体連合会の坂本専務理事などが来て発表討論した。
 私にとっては、2代目のIWA会長を務め、中国をIWAに招き北京会議を開催して貰い、東南アジア諸国とアジア太平洋会議(ASPIRE)を作り上げた現役時代の事を改めて思い出す会議であり、中国流の『爺爺』(イエイエ)として、IWAの古い仲間やチャイナ圏の後輩達に丁寧に扱って頂き恐縮の極みの毎日でした。
 クローズド化を強めた水代謝システムを日本の水道協会誌に『水環境区論(水代謝論)』として1972年投稿して40年になる。中国で王教授らの手で環境区水代謝が具体に展開し始め、「Nondischarge System 」が西安の資源学院で環境湖を含んで具体化されたのを見ることが出来、中国の次の時代の基本構造に昔の提案が汎用化されて展開しそうな事を見て、欣快であった。
 北大の環境工学の船水教授がブルキナファソの研究ステーションから戻ってきて、北大のアフリカ常註スタッフとともに参加してくれ、小生のエスコートをしてくれた。とんぼ返りで今またバルセロナの水再利用のIWAの会議に出かけていった。10月にはブルキナの農業大臣を北海道にお招きするという。古い時代1970年代から東南アジアでコロンボプラン、JICAの技術援助で東南アジアでしばし働いた老人には嬉しいことである。昨年のモントリオールIWA総会で「President Award forGloval Vision』というIWAの最高賞を頂いたときも、跡継ぎの北大名誉教授の渡辺義公先生が往来の面倒を見てくれた、その前の年のオーストラリアのパースでIWA(ASPAIR)会議のおりに「Young Professional 」のプログラムで講演したときにも渡辺先生がエスコートしてくれて低血糖で寸時迷惑をかけた。後継ぎの教授さん達が頑張って気を遣ってくれるおかげで元気に国際会議で講演が出来るのは有り難いことである。
 来週10月1日から東京で我々が創って、第一回をシンガポールに頼んで開いて貰った(PUBのクーテン/チャイ総裁やJICA水道コースの教え子のチャン局長、シンガポール大学のオン教授にご苦労をかけた)IWAアジア太平洋会議(ASPIRE)が東京で第4回を開くことになった。2,000名を超える人が有楽町のフォーラムに集まるということで、われわれの次の世代が主催する会議である。幅のある根のしっかりした水技術と水文明を22世紀の為に創りだしてほしい。今持っている日本の水文明の価値は、次世代を生み出す力を持って初めて価値となると思う。

"Water District on a Fractal River Basin"(pdf)
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明日からIWAの会議がある。
”Think appropriate water districts on a fractal river basin”というタイトルで
Keynote lectureを行うことも頼まれてしまった。
旧知の面々と会うのが楽しみである。

 (スタッフより)

インタビューをご紹介します。
 



2007年3月3日
かがく探検隊CoSTEP ラジオ第71回
研究室に行ってみよう 「水」はとても大切なもの

CoSTEP活動レポートのページ
へのリンク
リンク先ページ上部でダウンロード(Podcast又はMP3)して、放送を聴くことができます。

インタビュー
前半 14分11秒~19分22秒(5分11秒)
後半 20分03秒~24分44秒(4分41秒)

(前半発言要旨)

先生にとって面白いと思われた研究は何ですか

・「科学」というのは、「何か面白いことがあってやるという科学」と、「どうしてもしなければならないことがあってやる科学」の2つがあります。科学と言っていいか分かりませんが。僕は後者の方ですね。何かをしたくて学問をしたことは1回もないです。「しなければならないこと」がごろごろと転がっていて、分からないから仕方なくやったのです。それは、物理学、天文学、考古学をやる人との違いだと思います。子どもたちにとって「何かがしたくて何かをする」ということも大事ですけれども、世の中、しなければならないことがあったから必死になってやっているうちにその道の専門家になるということがあるわけです。僕はそうでした。

・「ああ、やったな」と思うことはあります。ただ、それは「やった」と思うだけで、次の問題がドロドロ出てきて、「これは大変だ」となる訳です。そうこうしているうちに75歳になってました。まだ、「大変だ」と思っています。

 

今まで必死にやってきたことが、水環境をよくすることにつながっていたということですね

・僕は32、33歳の頃から研究室の責任者だったから、自分のための研究というのはしたことがないのですよ。僕のチームがちゃんと働くような仕事を選んできたのです。古典的な浄水の急速濾過システムのイロハから始まって、最後の「ん」まで、ピリオドを打つまで、全部、僕の研究室で、1ブロックの仕事が出来上がったのです。
このシステムは、世界中で使っている水道のシステムの研究で、何も新しいことではないのです。それをきちんと解き明かして、原理まで、同じ正確さでつないだという研究を、僕の研究室では約20年やってきました。僕の頭の中で考えてきたことがきちっとまとまったということが、多分、僕の研究の中で一番大きな仕事だったと思う。

水の研究を始めたきっかけは何ですか

・僕が水の研究を始めたとき、日本は電力も少なかった。火力発電所などがない、水力発電の時代ですから。ダムで電気を起そうという戦後の復興期です。僕の卒業論文は、ダムの水なのです。

・子どもの時、僕は天北原野、稚内のすぐ南で育ちました。そこには、「白い水」はないのです。泥炭地の水で茶色い、にしめたような水だったのです。風呂に入ったら、へそは見えません。飲み水は、列車が1日に2回だけ運んでくる。僕の父は校長先生でしたが、学校に大きな缶をかついで行くと、タンク車から水をくれるのです。日に2回、水を汲んでくるのが、唯一飲める水、白い水だったのです。そういうところで育ちましたので、僕は。昔、夕張の子どもが、石炭のために「川は黒い」と思っていたように、僕は「水は茶色」と思っていたのです。それが結局、自分の一生の仕事になったのです。

・もっとはっきり格好良く言えば、1992年、国連宣言ダブリン・アコード(協定)で、「世界中の人にもれなく1日1人50リットルのきれいな水を配りたい」と言った。京都アコードは温暖化でよく知られるけれど、ダブリン・アコードは知られていません。ダブリン・アコードで「50リットルの水を配りたい」と思ったことが、多分、僕の一生での、僕を動かす駆動力です。東南アジアや中国の奥地などをずっと走り回って、その仕事を一生してきました。



(後半発言要旨)

先生は、ダブリン・アコード以前から各国で活動されていました

・僕のチームで、1970年にJICAができる前に、インドネシアで3年仕事をしました。76年、アジア工科大学(タイ)の環境工学のスタートをやりました。文化大革命の終わった3年あとの83年に僕は中国にずっといて、中国の人たちのトレーニングをしました。

・「日本でいい水が飲めるけれど、それだけではまずいじゃないか」って思いますよね。それを皆、僕のスタッフはやりました。でも、日本のことすらできない人たちが、外国に行って偉そうなことを言ってもだめなのです。水道、下水道は、日本など特定の条件のもとでしか成り立たない技術なのです。日本の技術を持っていって、インドネシアで下水道をつくろうとしても、できっこないのです。中国は、それをやろうとして、ものすごいエネルギーを使いまくって、水まで無くなったのです。そういうことを、自分の頭の中で考えなければならないのです。


・ダブリン・アコードは正しいのです。でもそれを、どういう形でやるかという、技術屋としての、科学者としての判断というのは全然違うのです。それは、インドネシアに住み込まなければだめです。

・井戸を掘ってきれいな水を飲ませてあげたいと思って、みんなバングラディシュに井戸を掘りまくった結果、出てきたのはヒ素だった。今、それをどうしようかということで、うちのメンバーもよくバングラディシュに行っている。自分で作った問題を、自分で解く-人間は本当に阿保なもので、良かれと思ってやったことが、全部、次の連中の負荷になってしまうのです。ですから、50リットルの水を配るということは易しいことではないのです。一生懸命、やらなくてはいけないのですよ。

緊急な問題は何ですか

・日本は、食べ物の60%を輸入しています。北海道ではたくさんつくっていますが、日本では4割しかつくっていない。エネルギーの96%は輸入しているのです。ですから、それが止まったら、すぐに死んでしまうのです。水はたくさんあるように思われますけれども、6割輸入ということは、よその国から、日本がつくった水よりももっとたくさん輸入しているわけです。

・日本では農作物をつくるために、農業用水というものを使うわけです。それが600億トン/年です。外国から牛肉、小麦粉、とうもろこしを輸入する、たくさん輸入するでしょう。これらをつくるために、アメリカでは、多分450億トン/年くらい、オーストラリアからは、100億トン/年くらいの水を使っています。水がなくて大渇水になって、からからに干上がったオーストラリアから、毎年、100億トンの水を日本がもらっていることになりますよね。

・いくらでも大事に使える水ですが、水がないからと言って、海水淡水化をして、エネルギーを使って、太陽の真似をして水をつくる。そういう技術はありますよ。「それを使うか使わないか」という問題なのです。ものすごいエネルギーを使うわけですから。
 

将来、研究者を目指す人にメッセージを

・水のことをもしおやりになるのであれば、水のことをしっかり勉強してくださいね。そして、「水というのは〇〇です」ではなくて、水を使っているものにはどういうものがあるかを知り、水を使って自分で何かをやってみてくださいね。昔は、お百姓さんがやっていたんですよね。できなかったら、水を使ってお掃除してご覧なさい。便所の掃除をちゃんとするにはどんな水が要るか、その水を汚くしないで捨てるにはどうしたらいいかということを、本当のことを、ずっとやらなくてはいけないのです。

 

21世紀は、「水の世紀」と言われる。

世界の3分の2を占める水をベースにしてわれわれの生命は成り立っているが、使える淡水は地球上の水の0.01%しなない。海水淡水化などのエネルギー多用型技術の単純利用も難しく、使うからには、若干複雑多様な水使いを考えた上で、極めて限定的にしか使えそうにもないことを覚悟しなければならない。

水さえも「湯水の如く」使えない世紀になったことを次第に実感し、10日に一度地上に回帰する水循環をもってしても、人口100億人の時代には容易ならぬ事態を迎えること知っておくべきと思う。



Mizu Management(水マネジメント)2008創刊へのリンク(PDF)
 
 日本ヘルス工業(株) 2008.1.25発行

インタビュー 水との共生-根幹に根付く「水哲学」から見えるもの
(P2-P7)
  ・すべての基本は水
  ・現場からの問いかけが大事
  ・水、エネルギー、資源とのリンクを
  ・求められる総合力をもった人材
  ・体を使った学びが必要 汚いことも体験してほしい
国際水協会(IWA)最高賞受章
PRESIDENTIAL AWRD FOR GLOBAL WATER VISION

Summary of the achievement of Dr. Tambo

Professor Tambo advocated a new post modern paradigm as early as 1970’s for the 21st century and assumed that at least half century might be needed to materialize his concept in real city plan.  The new paradigm of water system for the 21st century post modern world that he proposed is that the urban/regional water metabolic system of the next era will be designed to supply optimum quality of water for specific usages with necessary amount for the use through appropriate integrated systematic use and recycle of water resources at minimum cost (energy-consumption rate) with the technological and managerial goal that the cities and regions involved in water usage and drainage (urban water metabolism ) should take direct and proper responsibilities over the water environment.  He suggested an importance to graduate from the rather rude conventional/modern water system to supply top quality water en bloc for every purpose (modern water supply system) and then to dispose the used water again en bloc as “sewage” (modern sewage work system).  He thought that the conventional modern water and wastewater systems are possible to sustain only when ample regional water resources exist.  The above concept became the basis of the Singapore Green Plan 2012.  

 
>>Write-up for nomination of Dr. Norihito Tambo for the IWA Global Water Award (PDF)



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丹保憲仁
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91
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男性
誕生日:
1933/03/10
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カメラ
自己紹介:
・主な経歴
 水の安全保障戦略機構議長
 日本水フォーラム副会長
 北海道大学名誉教授(第15代総長)
 放送大学名誉教授(第5代学長)
 第89代土木学会会長
 第2代国際水協会会長
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